他の人により磨かれること

当職はそうでもないが、この業界にいわゆるお人柄もよく、優秀で、(しかもオシドリ夫婦であったり)、その挙動お話を見ているだけで、尊敬の念がわき、自分の思考が磨かれるように感じることが結構ある。同業弁護士、裁判官(特にオシドリ夫婦という例が多い印象である)、(主に民事ばかりしているので検察官は知らない)、職員の方々、そして、お客様も、かなりするどいお話視点をお持ちで、その「思考の仕方」「着眼点」などあらゆるものを見る機会が、記憶が、大変感心させられ、尊敬に値し、よちよちの歩き方もかってわからなかった当職にとっては、大変な財産である。
自分の持つ欲求の一つは、多くの方々の思考に触れて、自分の思考を広げ、磨きたいというものでした。そのため、あらゆる業界のトレーニングに出向くこともありました(やりすぎの場合もあった)。「これはすごい」「なるほどそうか」「あれ、こういうことだろうか」と1回気が付くたびに、大変うれしくなるということである。
最初「無」のようなものであった自分にとって(むしろマイナスというべきであったかもしれませんが)、とても大切な原動力になっていると感じるのでした。

説明・ご承諾と弁護士事務

弁護士事務には、お客様の課する制約条件の下、生ずるリスクを説明させていただき、ご承認いただいた上で、進める必要があるものが大変多いものであります。そのリスクとなれば、担保を積む必要が生ずるものであるとか、いろいろありますので、弁護士としては、お客様と連絡が取れる機会を使って、可能な限り詳細にその説明をさせていただき、ご承諾をいただいて、事務を進めることになります。
お客様の中にはいくら説明を差し上げても、「ぼくはわからない」「結果としてこうしてくれればいい」という話をされるお客様がおられることがありますが、弁護士としては「勝手にやった」「そんな方法は指示していないし納得していない」という話にすり替えられると困りますので、進行自体にも大きな悪影響を及ぼすことになります。最後の手段は信頼関係を維持できないこと、無理を強いられたことによる辞任となります。
最近の新規受任の際には、「説明はわからない」「結果としてこうなればいい」というお話だけされるお客様は、遺憾ながらその場で受任をお断りしております。過去からの案件でも、辞任せざるを得ないかと検討をするのですから、当然です。
それでも配偶者の方々などご家族のご協力を得て、説明を受け、リスクを納得したという書面を取り付けることで、ようやく動かせる場合があります。
当職は特に細かすぎるほどリスク開示をしますので、「説明不要」「承諾もしたくない」という方はそもそも合わないのかもしれません。(スムーズに承諾などのやりとりができるお客様は単純な事例で、お客様の制約条件が緩くなければ(あと、委任状等の書類に誤りなどない限り)、ほとんどタイムラグなく事務が進む印象です。(単純さゆえもありますが、また一般化できませんが、最近の事案では最短でご相談から2,3か月程度で訴え提起などの進行)
ご相談者ご依頼希望者は、その点もご考慮いただけますと、ご依頼からの手続進行がスムーズに進むことになると考えます。
なお、ご連絡方法で、電話連絡しかできないというご相談者の場合も、現在受任を差し控えさせていただいております。当事務所での現在のご依頼者様は基本的に、メールなど連絡事項が形に残るお客様のみとする方向で取り扱わさせていただいております。お電話をいただいても、ワン切りで、多数の営業電話と区別できないものも多く、対応が困難な場合が多いためで、その調整に手間と時間がかかったりしますと、他のご連絡事項できちんとお互いに記録の残る形でご連絡をおとりいただいたり多大なご協力をいただけるお客様の事務にまで影響がでるためです。また、お電話以外のご連絡ができないとされる方の中には、ご自身以外の電話番号でおかけになる方もおられる実例があったからであります。そうなりますと、安定したやりとりを前提として次のやりとりないし事務を進めることができないためです。あと、電話口で認知症をうかがわせるような言動をされたお客様につきましては、後見登記のないことの証明書などのご取得をお願いすることがあります。ちなみに、見知らぬ電話番号に出る際は大変リスクを感じる実情を説明させていただきますと、うっかり営業電話にあたると、一般の自営業者会社などでもあるとお聞きしますが、ひどいときには1週間から1か月間、間断なく営業電話がかかってくるようになり、事業自体に多大な支障を来す状態になることも稀ではありません。
重要な事項をメールなどでやりとりすることという点で申しますと、一応最後まで事件も終了し、それなりにご満足をいただいたのか、最近、別件のご依頼の具体的なご相談をいただいた事例でありますが、前の事件で、「重要な事項ですので、メールでご返答お願いします」とご依頼申し上げましても、たびたび電話で形が残らない方法にされようとしていたお客様については、遺憾ながらお断りした実例があります。
大変恐縮ですが、ご理解ご協力のほど、よろしく御願い申し上げます。

ささやかな若いころのお話

さて、「事実は何かということへの関心」と別の記事で書かせていただいたのですが、それで思い出したことがありますので記載します。弁護士なりたての新人の頃の刑事弁護人としては今考えると失敗と思われるのです。
それは、まっすぐ伸びた両側に障害物となる建物もないみはらしのいい国道での事故でした。被告人は、慎重に、他に車がないことを確認すると、時速10キロ程度で、右側の小さい小道にゆっくりと右折を開始したのでした。ところが、そのゆっくりとした速度があだとなりました。はるか遠くから直進してきたバイクが、道路をふさいでいるその車に突っ込んできて、衝突、亡くなったという事件でした。当時国選弁護人としてその事件を受任した新人の私は、その起訴状を受け取り、記録を謄写して検討しました。記録では、既に、被害者の落ち度が大きいということで、保険でも被害弁償は終了など、あまりすることがないという印象の事件でした(もちろん、刑事弁護でする他の情状弁護活動は全て行いました)。
被害者の落ち度は、刑事弁護であれば、被害者の落ち度であることを弁論要旨で主張するべきだったのです。しかし、当時の私は、その事故態様になっとくいきませんでした。この点、検察官と話す機会があった際も、検察官は、被害者の落ち度は明白と考えていたようであり、かえって、現場を通行止めにしてまる数日かけて、当時の現場を再現し、完璧な起訴状だと述べていました。本当にこのような状況で自ら車に突っ込んでゆくものなのか、どうしても納得がいかず、一般に言われる現場を見た証人探し、現場百篇的な行動を(但し結果として被害者側の話)とってしまったのでした。
そして、気が付いたのが、バイクが走ってくる方向と、右折場所との間に、地図でもわかりにくい、小さい道があり、右折車がいるという状況があることに気が付きました。改めてバイクの進行方向から見ると、車が2台重なり、被告人の車が死角になってしまっていた可能性が判明したのでした。
つまり、被害者の無謀乱暴な運転ではなく、間に死角を作る右折車がいたことによる不幸な事故であると考えられました。被告人本人には(問題はありますが)当日までに伝えていませんでした。
公判当日、アクシデントが起こりました。ようやく紆余曲折合った人生を新規開店し新しい門出をしようとしていた矢先に事故にあったご子息について無念のお気持ちがあったのでしょう。法廷に来られていたご両親が突然立ち上がり、被告人に対し、許さないなどと批判の大声をお上げになったのでした。当職は被告人質問中のため、ここで、先の、事故状況について質問をしました。「・・このような死角が生じていた可能性があった可能性はありませんか?」「被害者の方の落ち度ではなく、本当に不幸な事故であった」などの趣旨の質問です。被告人本人は当時の状況からして間にあった車のことなど認識していなかったことは明らかですから、不利なことを言いたくないとすれば、違う回答をできたでしょうが、根が誠実な方ですので、被害者の落ち度がなかったかもしれないという方向の回答をされました。弁護人としては全く失格のこだわりであったと今でも反省するところです。
公判終了後、被告人と共に、法廷を出ると、先の被害者のご両親がお待ちでした、初めてご子息をかばったのがおそらく被告人と弁護人で、被害者の落ち度を指摘すると思われていたのが、そうでなかったのが意外だったのか、大変うれしそうなご表情でした。幸運にも、お父様も大変良い方であったため、被告人に対し、「会社があなたを冷遇するなんてことは俺たちが許さない」「会社に絶対に不利益を与えないよう直談判する」とおっしゃっていました。そして実際にそうされたようです。このご両親の行動を拝見しますに、被害者の方がいかに思われていたのか、そしてそのお人柄まで思いが至るほどでした。その当職に伝えた被告人は大変うれしそうでした。結果オーライではありましたが、自分の変なこだわりで被告人のリスクを一般的には増やしたので、自分が刑事弁護人に不向きだと感じたところでもありました。

眼鏡のいろいろ

この年代になると、近くが見にくくなる(要するに老眼)とか、いろいろな問題が起こってくる。眼鏡の選択も一苦労である。その中で、最近はこんなものがあるのか、と思うことがある。その一つが、色覚補正眼鏡である。これに関し、あるサイトに、「全問正解できる人がわずか5%」と謳った色覚テストサイトがある。要するに、色覚の程度は人ごとに違うので、全問正解ともなるとわずか5%ということなのである。私もやってみたが、微妙な数字、70%正解であった。色はわかるが、・・というものである。自分的には遺伝によるこれが、中学での文科系への進路指導の理由なのであり、技術者になりたかった自分の夢ついえて、部活のみに使った高校3年間(ただし充実はしていた)要因なので、思うところはあるのである。ただ、このメガネはおもしろそうだと思っている。使う予定はない。今の時代のこともたちは色覚多様性といわれるが、いわゆる「石原式」による偏見を受けることはないのだろうと思う。その他にも、いろいろな眼鏡がでている。面白そうである。多くの方はそれぞれの眼鏡を楽しんでいるのだろうか。ちなみに、法学部との出会いは、高校のほとんどの時間を費やした部活(新聞部)で、OBの建築士の先生を訪問し、旧制中学の頃の教育(既にバウハウスが行われていたとのこと、今ではその意味がわかり当時の自分の無知を恥じるばかりであるが、当時その意義をよく理解できなかった私は、記事から落としてしまい、先生にお詫びした。)について取材したときのことである。先生が将来何になりたいのかお聞きになったのであるが、他の2人は答えたが、当時何になりたいという希望もなかった自分であったため、こたえられるようなものがなかった。横浜市中区関内の先生の事務所で、窓の外を見たら、〇〇法律事務所の看板が目に入ったというのがきっかけであった。本来の男女のたとえではないが、縁は異なものであると思う。

決まらなかった選択科目

私の時代は昔の旧試験であったが、選択科目はどれもよさそうで、あまり勉強に集中できないわりには、複数科目を比較してどれにするか最後まで悩んでいた。公務員試験では、論述は、行政法、労働法、司法試験的には国際私法、別の公務員試験では1科目でいいところ、民事訴訟法と刑事訴訟法両方答案を書いて、その一方を提出するといういい加減さであった(だいたい制限時間の4分の一くらいで退出。司法試験はこの年、公務員試験を論文の前々日までうけていたら案の定落ちた。これで嫌気がさし一旦受験を止めた。)効率的に、こつをつかんでタイムマネージメントを行って合格するという優秀な受験生のような集中力と要領の良さは全くなかったのであった。公務員試験は1種法律職で特に個性がでたようであった(面接官の話)。法律で稼ぐべきなのに、知能テスト、経済原論、理数科目のみが満点という偏り方とのことであった(理数科目は経済原論の経済数学で楽しくなり、そのままの拡張で、全科目に一気に対応したようであった。知能テストもほとんど時間を使わず短時間でさっさと解いて出てきたので、解法を繰り返し使って覚えて使いこなす他の公務員試験と異なり、センスとでも一気に解ける1種の試験と相性が良かったようであった。
年をとり、今は優柔不断のみが残っているようである。

気になること

普段暮らしていると、どうしてもルーズになるのが、どうしても気になるところである。昔の一時期は、小六法をいつも小脇に置き、自分の一挙一投足の根拠が気になったくらい細かかった。細かくなるとどんどん細かくなるたちなのである。仕事の先輩方もとてもち密な人が多かった。そういえば司法試験の勉強の時は、時間がなかったので、忘却するわけにもいかず、何か資料を作るということもできなかった。ざっと一通り抑えてバランスをつかむ機会が得られたら、あとは毎日全科目、試験当日と同じ作業を、朝5時から7時の2時間で繰り返していた記憶がある。要するに、自分の頭をそのものとするのである。今はどうかというと、そこまで細かくできていないので、法律そのもののち密な理解から外れやすくなっているような気がする。その前に相談者の事情やビジネスを理解したりするのに隣接諸学問などの知識を学んで使うところから始まることが多くなるので、どうしても、法律屋としての色合いが薄れるのである。どうにもどうにかならないか、気になるところである。隣接学問で使って役立つ効果を感じるのはやはり論理学・数学等であり、毎日欠かせない栄養の一つであるが、実際の議論は論理的に珍妙な議論が横行するので、時々むなしくなることがあるのが実情である。

今でも続く趣味

弁護士なり立ての時期は、特に、仕事にかこつけてなんでも勉強していたと思う。いろいろな建物(建築建物)を見に連れてゆかれ(確かそれは当時のボス弁が多くの大工の棟梁の知り合いがいるとともに、建築士会の顧問をしていたからだったと記憶している)、並行して、高専の教科書、建築士の教科書、構造力学なども含め熱中していたと思えば(勿論現場経験がない人間のすることはあまり役に立たないので気休め程度にすぎない)、ゴルフクラブの飛びとすれば、当然材料力学弾性体の力学なども(所詮素人なので参考文献を誤って弾性体の力学などをしたり)、統計力学の例の演習書を見て絶望しかけたりしたーもちろん専門家不在では各分野は処理できない。)、光ファイバーとすれば光学、ファラデーローテータなどであるが、当時は、高校時代にほとんど学習しなかった理科系科目の知識不足を補うため、改めて、易しい岩波の物理入門コース全巻から始まり、関連書籍を読み漁った。調布の夜学の大学で科目履修をしたこともあるが、数学の毎回のテストで、他の学生の点が低く間違いが多いのを知ったが、今一つ通う時間が効率的でないと感じ、結局やめて独学だけとなった。岩波は化学入門コースも入り口として読んだ記憶がある。細胞の分子生物学など、きりがなくなった。あとは理科系の大学のカリキュラムやテキストなどを参照して勉強した。次第にランダウのようなところに行ったりし、仕事と離れた趣味の傾向が強くなった。今はおよそほとんどの学問は英語で学習しているが、趣味としては持っていてよかったと思う。自分にわからないところがいつまでもあるので、新鮮な気持ちでいられるのである。仕事にもっと注力するべきだと反省したところである。

はじめての尋問(おつかい)

この仕事について、初めての民事の尋問は、事務所にいた先輩の退所に伴い引き継いだ、医療過誤案件の尋問であった。カルテの翻訳から、協力医とのやりとり、後にしばらく相談担当をして研修に参加することになった日弁連交通事故センターの先生方ほどではないが、多くの医学書をあたり、日本語データベース(JICST)英語でのデータベースをあたり、事故が起こった当日の現場(緊急搬入口)なども見に行って確認した(最後の患者搬入口は今考えると必要なかったかもしれないが、当時はなんでもやった。)。
事実はそれが存在する限り、相手方がそれを語る可能性がある。医師側専門事務所弁護士に引き続き、適性証人である医師への尋問となった。なりたてでさらに未熟な自分であったが、カルテの記載だけでなく、その具体的な経路を、自分でもその病院の現地の場所を見た記憶をたどりながら、かなり具体的に想起できるよう聞いた。すると、医師はその緊急搬入時の患者の姿を想起したようであり、暴れるので手足を拘束して搬入される姿について語りだした。カルテにはないが、それは、患者について、手おくれとされる状態と矛盾する患者自体の挙動であった。正直運に助けられたとしかいいようがなかったが、つたなくても、事実はそこにあったのであった。以後、自分の関心は、弾劾などだけでなく、何が事実なのか、が中心になるようになっていった。

どの程度の準備が訴訟で用いられるか

例えば、ある学校の校庭でベニヤ板で作られた構築物が倒れ、被害者が怪我をしたといった事故を考えてみよう。特にそれが10年近く前の事故であった場合などである。
民事訴訟を提起する前に労災事故であるとすれば、労災の記録、当時のカルテなどの一連の資料を用いることはもとより、事故が起きたその実態なども調査することになる。上の構築物でいえば、写真などでどのような大きさのどういう構築物か、それが文化祭などの際に作られたものであれば、そのものがあるか、なければ、その人づてをたどってその材料を購入した店などを見つけて、厚さ何ミリのベニヤだとか、など可能な限り、現物を再現できる状況にする。当日の事故の状況も、当時の天候の記録などを調べる。客観的に存在する可能な資料や記録は全て当たる。しらみつぶしである。風速も、当日の風速、測定されている地点と事故現場の関係、事故現場付近の構造と突風の有無が起こるような地形なのかなど、当たっていく。構築物と風の状況などが把握できれば、当然、おきる構築物の挙動などを想像し、確か空気力学(風力学、流体力学)などの機序、実験方法なども当たってゆく。そうして事故が起きた原因や状況などを客観的に把握するのである。社会で現実におきたものである以上、物理法則などの法則に従って起きるのであり、各種の科学的知見をおさえてゆく。怪我もその怪我の症状が長期にわたるものであれば、医学論文専門書などにあたり、医学的基礎を確認する。そして、当時の関係者の証言などもあたり、あらゆる角度から検証し、訴訟の形にしてゆくのである。こうして、集めた各種の資料知見はどれだけ使われるのだろうか、裁判所や相手方があまり実体に関心がない場合は、意外とあっさりしていることがある。
そのほとんどを出すことなく一部のみをもとに数回主張立証がなされたのち、裁判所から鶴の一言で和解に話が進んだりすることもあるのである。相手方は、あまり実体をとらえるという考え方をしていないことは明らかだった。そのある事件はあっさり和解で終了した。証拠は10%も使わなかった。準備がかなり無駄になった。必要な準備のはずだと思うのだが、複雑な思いになることがよくあるのである。(なお、上のプロセスは、個々の資料の位置づけ(得られる情報の評価)、自由度など多くの点で不正確なものであり、ざっくりとした、しかも一定の誤差範囲を想定した程度のものにすぎないことは述べておく。要するにどこまで言っても不正確な再現である。)

図書館にて

休日に、東京都立中央図書館などの開架、蔵書の豊富な(横浜であれば私立図書館であろうか)図書館に行き、仕事上の調べもの(補足。法律書等)をする機会が結構ある。
その際、時間の合間を見つけて、自分の趣味にかかわる図書も見ることがある。貸出できない図書館が多いので、中身をパラパラ見る程度であるが、それでも、アマゾンではわからないことがわかるので重宝する。
GW期間中は、外的環境と自分たち人間の反応との相互作用(千の脳と呼ばれる意識の理論。MITやNumentaの、現在はneuroscience-based AIアプローチの一つとしての研究の方向となっているようである)の何か参考になりそうであるため、センサーに関する研究所を見てみる機会があった。いずれも高額な書籍であるので、単なる趣味人には購入するのは無理な本である。センサーといいつつ、顔認識(分野や対象がずれるがいつもエクマン教授の有名な研究が思いうかぶ)、Dr Preskill の講義でも最初に言及される「量子センシングハンドブック 」、「化学センサ・バイオセンサ」「思考センサ「「生体センサ」などなどきりがない。
この分野だけでも、その広さがいかにとんでもないか、素人がこんなの読めないわ、と思いつつ、そうすると、「センサ工学の基礎」くらいが採用可能性(いざとなったら自腹で購入)かな、と思ったところである。(ただこれは閉架であった。)
実際の仕組みの一部は、neurobiologyなどで研究されているようであるが、この入門的書籍(Luo)だけでも、高額な書籍である。今の世の中はちょっとしたことに興味を持っても、広く複雑で難しい分野にぶちあたる、趣味興味を充たすのも難しいと、知の源泉(昔読んだ新書ー未来を創る図書館ーニューヨークからの報告がなぜか思い浮かんだ)である図書館をうろうろして感じたところである。

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